先人に学ぶ「不景気の時代をどう乗り越えてきたか」

昨日12月13日は九州陶磁文化館特別学芸顧問大橋康二さんの講演会を聞きに行ってきました。
焼物の事はほとんどわかりませんが、とても感銘を受けた内容でした。

海外輸出が多かった時代から国内生産に向かった時代に先人が何をしたか?とういう事がとても興味深かった。
それは器種を増やしていったという事でした。
器種を増やすという事は今まで磁器でなかったものを磁器で作ったという事。これは新しい磁器文化を創造していったということではないでしょうか?

現代もそうなのかもしれませんね。
究極のラーメン鉢のように外食産業では当たり前に使っているラーメン鉢を家庭内で使いやすいようにして、一般家庭でもラーメン鉢を使う(今までのように丼を使うのではなく)ようにすること・・・・

いろいろ考えさせられました。


詳しい内容は追記で・・・・

2011.12.13@有田ポーセリンパーク
主催:有田地域雇用創造推進協議会

有田焼職人養成講座 「有田焼技術の変遷」
先人に学ぶ「不景気の時代をどう乗り越えてきたのか」
九州陶磁文化館特別学芸顧問大橋康二氏

肥前磁器の海外輸出減退
・1684年以降 中国磁器の輸出本格再開
 ①東南アジア時期市場は中国景徳鎮と福建磁器窯によって奪還される
 ②ヨーロッパの実用的な時期市場も景徳鎮によって奪回される(価格で負ける)
有田は色絵で景徳鎮と競争(染付は減っていく)
1690年は金・赤多用する金爛手様式が現れ主流となる柿右衛門様式→金爛手様式
日本 大名用の皿
ヨーロッパ 金爛手の5本組の壺(古伊万里有田磁器の代表とされるが、ヨーロッパだけ)

典型的な柿右衛門様式の壺  板づくりの四角い(八角形?)壺
講義の柿右衛門様式の壺   ろくろ成形の柿右衛門窯以外で作られた壺
柿右衛門様式後の壺     板づくり成形の壺はなくなる。ろくろ成形を削って角をつけている。 
 
1685年の幕府による長崎貿易の制限令で、大型装飾品の比重が高まる
・中国磁器の本格輸出で、実用食器などの分野は中国に奪還され、有田は色絵や室内装飾品などに力を入れる
・壺・瓶の5点セット(染付→赤絵)
・染付の大壺・瓶のセットも景徳鎮との価格競争で消える。

ドイツ ヘッセン州の宮殿、シャルロッテンブルグ宮殿の磁器の間(ベルリン)
量的には中国が圧倒している。

1690年~1710年代 漆塗りの大壺など装飾品の登場(磁器と漆のコラボ)
ピルニッツ宮殿(ドイツ)アシュレモアン美術館(イギリス)
金爛手様式初期の色絵
・1684年輸出を再開した景徳鎮の康煕様式の影響(黄緑かかった色絵)

色絵装飾の違い
・有田は景徳鎮の色絵の競争する中で、金・赤に絞りコストを下げた色絵を開発。(ヨーロッパ向けだけに作った。)
→これはコスト的に妥当だったらしく成功する
チャイニーズイマリ 金・赤だけの色絵を中国がまねた。

日本で柿右衛門様式が終わったため、独自に開発
マイセン窯、チェルシー窯
アウグスト強王は柿右衛門様式が好きだったらしく、当時作られていなかった柿右衛門様式の焼き物を連金術師に作らせた

貴族紋章入りのテーブルウエア
・18世紀初めに多い
陶磁のヨーロッパのテーブルウエアに対応した食器を作っていった。

特殊な貴族の特注品を作っていった。
絵手本による注文
・特別注文
・プロンクの原画(1740年)

日本の風俗意匠
日本向けの商品ではなかった。
輸出最後の時代を象徴するのはハプスブルグ帝国のマリア・テレジア
地を黒く塗り、漆器に対するあこがれに対する要求があったのではないか?漆器風の磁器。
マリア・テレジア時代の有田磁器食器
・オーストリア領ベルギーの副王カール・アレクザンダーが有田磁器を収集
鷹の図、ハプスブルグ家の紋章「双頭の鷲」をオランダが配慮して作ったのでは?
生類憐みの令をあと、タカ狩りを復活させた吉宗の時代だからこそできたのではないか?

白地に金彩中心の色絵
・1757年バタビアの総督官邸用の金彩平鉢、金彩大皿の輸出。

人形
柿右衛門様式の時代(寛文美人図の影響)
輸出の後半 金爛手の時代→古伊万里人形(宝永美人図の影響)
雑な作りの人形になっていく

なぜ輸出時代が終わったのか?
・1684年中国の内乱が収まり、再び中国磁器が世界に輸出されるとたちまち価格競争で敗れ、東南アジア市場などは中国に奪還される。
・その後はヨーロッパ市場で有田だけが景徳鎮と競争するが価格競争で敗れ、またオランダがイギリスに負けて力を失う事、ヨーロッパで磁器生産が始まる。

これで手を打たなければ多くの窯がつぶれる!!



国内市場の開拓
・安価な製品の開発
・印刷装飾法(型紙摺り、コンニャク印版)
・厚手に作り、歩留まりを良くする
        ↓
誰でもが今と同じように、磁器の食器で日々の食事をすることができるようになる。波佐見のくわらんか碗、吉田など

食器だけではく生活の中で磁器の器種増大
有田が主導 新しい焼き物文化を創り出していった
・茶飲み専用碗、盃洗い、盃台、火入れ、灰落とし、お神酒瓶、紅皿、戸車、大皿も多くなる

肥前磁器生産量の推移(後期)
1680年 中国磁器輸出再開
1710年 東南アジア市場がなくなる
    嬉野で陶器の器・皿が作られるようになる
    波佐見、三川内陶胎染付
1770年 波佐見 くらわんか碗皿 →誰もが磁器の器で食事ができるようになる
    オランダ公式輸出終了
    窯焼名代札数180枚だったが、35枚は返上
    地方の藩が磁器生産を推奨していく
1800年 オランダ東インド会社解散
1804年 1814年には窯焼き名代札数182枚(窯焼きの数が元に戻った)
    地方の藩が磁器生産が成功していく
    肥前のシェアを食いこんでいくのではなく、単に磁器を使えるような人が増えの流通量が増えていった。
    有田でも危機感を持っていく
幕末  有田の豪商オランダ貿易再開
    博覧会などへの出展
明治維新


肥前窯の変遷 
窯は大きくなっていく。(輸出が減っても窯は大きくなっていくのは国内のシェアが広がっていた証拠でもある)
江戸後期には相当量の生産があっていた。

有田は器種の多様化
丼・・・高級磁器として始まった 元禄7年(1694年)『丼』「男重宝記」が初見
江戸後期に外食産業が盛んになっていくと庶民のものになっていく(うな丼、そばなど)

灰吹(灰落とし)
中産階級の人々が使えるようになっていく

蓋つきの飯椀
記録上1769年天草史料「奈良茶」1771年ごろから「奈良茶碗」が多くなる。
「茶漬茶碗」の初見は1804年
奈良茶漬けの流行があった。
丸型碗→望料型→広東型碗→端反り型茶碗
         →この時期に地方窯が隆盛していく
広東は輸出港の名前で日本では中国磁器の事を広東焼と呼んでいた

筍羹(しゅんかん)皿
春寒、筍干とも
筍を切ってアワビ、小鳥、かまぼこなどと色良く盛っていた

茶飲み茶碗18世紀の後半
煎茶の流行
茶飲み専用にはふたがない 丸型と筒型を有田が創り出していく
幕末には別に「湯呑み」 深小丸型と湯呑み(自分用の大きめの茶碗)

段重
18世紀から増えていく
亀山焼→有田にとって危機であると言って、代官が有田に優遇措置を取るようになった。
有田で作られた亀山焼の写しもあった(アリカメ)

猪口
初めは高級品、向う付け的な使い方をしていた
18世紀からは安価なものを作るようになっていった。大衆化して地方窯でも作られるようになった。

他地方の磁器窯の勃興
庶民まで磁器を使うようになる
瀬戸美濃、京焼、久谷、砥部
肥前磁器の市場独占の時代が終わる
明治期には生産量で瀬戸美濃に首位を奪われ、肥前が下降線をたどる時期。しかし肥前が規模縮小したわけではなく、他が発展。「影が薄くなった」

地方窯の勃興に対抗する工夫
・1815年成松皿山代官は地方窯に対抗するため、他窯の追従を許さないまでに熟練した技と有田の各山の旧来の特色を生かす方策。
・各山の製品分野を制定
有田皿山に対する藩の保護
・燃料の(薪材)の格安払い下げ
・蔵米の貸出
・不況時は製造資金の無利子、もしくは低利貸付
官民一体になっての有田の対抗策

神仏具
・瓶子
化粧道具
・白粉入れ、うがい茶碗、紅皿など
文房具
・水滴、筆立て、硯、硯屏
植木鉢、戸車
・蘭鉢

幕末、1840年代ごろから明治に第2次輸出時代
1867年以降万博への出品
明治~戦前にかけて輸出したが、この時代は有田だけではなく他窯も輸出
戦後は朝鮮戦争特需で持ち直す



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Posted by On y Va! at 10:17│Comments(0)お勉強
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